「下剋上合コン術・彼女作り」無料メール講座

合コン経験2,000回以上、大人の関係を持った女性3ケタ、TV出演・雑誌掲載多数、
『下剋上恋愛のプロコーチが教える モテる戦略』著者・アモーレ石上による、
30代独身男性が自信のある男に生まれ変わり、最高にかわいい彼女を作るための究極ノウハウ

アモーレ石上の仕事プロフィール

僕は元々自分に自信のない男性でした。その自信のない男性であった僕が、今日では「人生は適切な行動をすれば望む成果が出せる」との気持ちを持つことができるようになりました。

 

この気持ちこそまさに「自信」。つまり、若いころには自分の中に存在していなかった「自信」が、今では自分の心の中に定着しています。

 

一般論として、自分に自信がない男はモテないし、自信がある男はモテると言います。これは僕も基本的には同意見です。

 

僕自身がこの約20年間の間に恋愛以外の分野でどんな活動をして、何を体験してどのように内面が変化していったのか。

 

そこにあなたが女性にモテるために役立つ要素を発見して頂きたく、僕の人生プロフィールを書いてみました。

 

ご一読頂ければ幸いです。

 

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「僕は、社会に必要とされていない。」

 

そう感じたのは、1997年の春、大学生活も後半に差し掛かり、就職活動を行っていたときでした。

 

当時はマスコミ業界志望でした。電通・博報堂と言った広告代理店への就職を希望していました。

 

しかし、沢山の会社に面接に行けども行けども、次のステップに進むことなどありはしません。

 

あまりにも結果が出なかったので、僕は6月に早々に就職活動を投げ出しました。そして、当時お世話になっていた沖縄県西表島のスキューバダイビングショップにアルバイトに行ってしまったのです。

 

なぜ、就職活動がうまくいかなかったのか?

 

今なら、明確な答えが分かります。

 

それは、自分に「自信」がなかったから。それに尽きます。

 

では、なぜ僕は自分に自信がなかったのか。過去の自分を振り返って考えてみます。

 

 

【高校生活】

 

そもそも、僕は自堕落な性格でした。自分の好きなこと、興味があることは一生懸命取り組むが、そうでないことには全く取り組まない。

 

普通だったら、必要なこと、他のみんながやっていることは、バランスよく取り組む人が多いのでしょう。

 

しかし、僕はそれがなかなかできませんでした。

 

例えば、高校生活。

 

僕が通っていた高校は付属校でした。その高校では、例え成績が悪かったとしても、卒業さえできればほぼ100%大学へ行けます。

 

特に向学心も高くなく、取り組みたい学問の分野もなかった僕にとって、勉強する意義・モチベーションは高くありませんでした。

 

そうすると、必然的に勉強することはなくなっていきます。

 

そんな環境で、僕がはまったのは麻雀でした。

 

このゲームは実に面白い。僕は時間が許す限り、麻雀に時間を費やしていました。

 

放課後授業が終わると、雀荘に直行。そのまま夜10時から11時くらいまで打つこともざらにありました。

 

週末ともなれば徹マンに興じることも珍しくありませんでした。

 

そんな状態ですから、朝起きるのがきつくなり、寝坊して昼から学校にいく機会も増えてきました。

 

また、朝から学校に行ったとしても、昼から授業をサボって雀荘に行くこともありました。

 

期末テスト期間になっても、テスト勉強も殆どせず、せっせと雀荘通いを続けていました。

 

そんな状況ですから、学校の成績がいい訳がありません。また、授業も沢山サボっているので、出席状況も芳しくありません。

 

テストの度に、一夜漬けを繰り返して何とか乗り越えてきましたが、とうとう力尽きます。

 

高校3年生のとき、卒業することができず、遂に高校を留年しました。

 

 

【大学生活】

 

4年間の高校生活を終えて、大学に入学しました。

 

結論から申し上げると、大学に入ると僕の「学校に行かない度合い」は更に加速することになります。週1回くらいしか行っていませんでした。

 

引き続き、勉強に対する意欲は全くありません。また、将来何がしたいとか、卒業したらどんな仕事に就きたいとか、そんなことも全く考えていませんでした。

 

生来好きな魚や海洋生物の観察がしたく、スキューバダイビングのクラブに入りました。

 

そして、これがまた最高に楽しかったのです。

 

スキューバダイビングを楽しむにはお金もそれなりに掛かります。そうすると、アルバイトをする必要が出てきます。

 

アルバイトに注力するあまり大学に行く暇がありませんでした。その実態は、アルバイト、夜更かしして飲み、昼まで寝ることをを繰り返していました。

 

そして、大学も留年します。

 

それでも何とか学校をクビになることなく徐々に学年が上がっていき、就職活動を始めることになるのです。

 

元々高校も留年している上に大学も留年している訳ですから、浪人や留年を経ず順調に学生生活を送っている同い年の友人とは2年の遅れが生じました。

 

僕と同じ年に高校に入学した同期の友達は、普段一緒に遊んでいた友達だから、相手のことは基本的に自分と同じ程度のレベルの友達だとの感覚がありました。

 

その友達連中は、大半が就職活動を終えて社会人になっています。みんなそれなりに著名で立派な会社に就職していきました。

 

僕と同レベルの友達連中が就職活動を成功できたのだから、自分も多分大丈夫だろう。

 

そんな気持ちが心の中にあり、正直就職活動をナメていました。

 

そして、実際就職活動を開始してみると、僕は自分の考えが甘かったことを嫌と言うほど思い知ります。

 

面接官からの質問にまともに答えられないのです。

 

「なぜ、うちの会社を志望しているのですか。」

 

「うちの会社に入ったら、どんな仕事をやってみたいですか。」

 

「社会人として生きるにあたって、あなたが重視していることはなんですか。」

 

そういった質問に答えてはみるものの、完全に付け焼刃だったのでしょう。面接官の心に刺さらず、次のステップまで行くことはありませんでした。

 

それを繰り返すうちに、冒頭申し上げたように、「僕は、社会に必要とされていない。」と感じたのです。

 

その理由は「自信」のなさ。

 

僕は麻雀やスキューバダイビングなど、自分の興味があることには心を砕いて自分のエネルギーを傾けて注力してきました。

 

一方で、勉強や将来設計など、本来「やるべきこと」から逃げて後回しにしてきました。

 

自分の中で明確な「価値観」が定まっていないので、人間としての「軸」がない状態でした。

 

ですので、面接官から、人として生きていく上での本質的な質問を受けると、慌てて取り繕おうとして要領を得ない回答をしていました。

 

生きることについて、何も具体的な行動をしていないし、そもそも真剣に考えたこともない。

 

これでは、面接の対応に自信のなさが露呈してしまうのもしょうがないことです。

 

そして、6月に早々に就職活動を諦めて、沖縄県の西表島にあるスキューバダイビングショップの手伝いをしに東京を旅立ったのでありました。

 

結局その年も留年し、翌年に二度目の就職活動を行ことと相成りました。

 

翌年の就職活動において、特に自分の中で何かがレベルアップしたと言うことはありませんでした。ただ、1年間時間があったので、前年より自分の将来について少しは真剣に考える時間があったのかもしれません。

 

僕は自分が好きなことを追究してきたことについては全く後悔していませんでした。

 

勉強しなかったことについては、もう少しバランスよくやっとけばよかったかなとも思いますが、基本後悔はしていませんでした。

 

ただ、世の中で生きていく上で重要な情報知識を自分の中に持つことの必要性を段々と感じるようになってきました。

 

そうであれば、日々の業務を行いながら、重要な情報知識を習得できる仕事がいいのではないか。そんな観点が芽生えてきました。

 

また、日経新聞の購読を始めたところ、ショッキングな出来事がありました。何が書いてあるか内容が殆ど理解できなかったのです。

 

何が理解できないのか紐解いていくと、書いてある単語が意味の分からないものばかりであることが明らかになりました。

 

日経新聞には、株式がどうとか、債券がどうとか、転換社債がこうしたとか、そんなことが沢山書いてありました。

 

日経新聞を読み解く鍵は、まずこのような証券用語を理解することが必要と考え、証券市場の入門書を購入しました。

 

世の中で何か大きいニュースが起こると、株価が大きくことが報道されます。なぜ、株式が世間の動きを反映するのか、僕は全く理解ができませんでした。

 

正直、株式と言うと、投資の対象とのイメージしかありませんでした。それは、ほぼギャンブルと同質のものとの印象でした。

 

証券市場の入門書を読んで、株式や債券が企業の資金調達の手段であることは何となく理解できました。

 

そのとき閃きました。

 

株価が世の中の動きを反映しているのであれば、株式に詳しくなればそこから遡及して世の中のことも詳しくなれるはずだと。

 

株式と言えば証券会社と言うことで、今後僕が必要とする「世の中で生きる上で重要な情報知識」を得るために、僕の2年目の就職活動は証券会社を志望しました。

 

2年目も沢山面接に落ちてすんなり行かなかったものの、業界順位7位の準大手の証券会社に何とか内定を頂くことができました。

 

 

【1社目】

 

そのような経緯で、僕は同い年の同級生より3年遅れで、1999年に証券会社で社会人としてのスタートを切りました。

 

実際仕事を始めてみるとどうだったか。

 

これが、想像していた通り面白い仕事でした。

 

配属されたのは債券営業の部署でした。

 

証券会社に入ると、まずは基礎的な知識を習得する必要があります。ですので、最初のうちはひたすら勉強ばかりです。

 

これは、学生生活遊び呆けていた自分には大変でした。しかし、覚えた知識がすぐに仕事に活用出来たりして、大いに勉強のやりがいを感じました。

 

また、想定外に良かったのは、証券会社で働く先輩方がみな個性的で魅力的だったことです。

 

ですので、証券会社に入ったことは、悪い選択ではありませんでした。

 

一方で、不満があったのは給料が低いこと。新卒だから当たり前なのですが、当時確か額面で17万円くらい、諸経費差し引いて手取りで13万円少々だったでしょうか。

 

年功序列を考えると、この会社にいると自分の給料が大体どれくらいで推移するのかは想像がついてしまいました。その金額は自分の気持ちをワクワクさせるものではありませんでした。

 

つまり、僕が入った証券会社では、「仕事は面白い。でも、給料は不満。」そんな気持ちを持っていました。

 

そんな折、外資系証券会社の給料形態を知ることになります。

 

簡単に言えば、プロ野球のような世界。

 

給料水準自体日本の会社と比較すると何倍も高い。実績を上げれば、年齢に関係なく沢山給料がもらえる。

 

その代わり、数字が残せない者には、容赦なくクビが宣告される。

 

まさに実力主義の世界。ハイリスクハイリターンを地で行っています。

 

この世界を知ってから、僕は外資系証券にチャレンジする気持ちが芽生えてきました。

 

元々仕事は面白いけど、給料水準に不満があった状態。同じ仕事で高い給料がもらえるチャンスがあるなら、それに挑戦しない手はありません。

 

ただ、僕のネックは英語でした。

 

大学時代勉強を怠けていたせいで、僕の英語力は極度に低かったのです。

 

これを挽回するには現地へ行って英語の勉強をするしかない。そう考え、最初に入った証券会社を1年半勤めたところで退職し、語学留学のためにアメリカに渡りました。

 

 

【2社目以降】

 

そのような経緯でアメリカのフロリダ州に渡り、1年弱の語学留学をしました。英語力はたいしてついた訳ではありません。ただ、以前は駅で外人に道を聞かれても怖気づいてまともに話せなかったレベルから、アメリカで日常生活程度は送れる状態になりました。

 

そして、留学生活も終わりに差し掛かる頃から就職活動を始めました。ラッキーなことに、アメリカの5大証券の一角であったベアー・スターンズ証券東京支店に入社することになりました。2001年10月のことです。

 

プロ野球の例えで言えば、千葉ロッテマリーンズにテスト生として入団したようなものでしょうか。兎にも角にも、僕は目標としていた外資系証券業界に潜り込むことに成功しました。

 

とは言え、生き馬の目を抜くとも言われる厳しい外資系証券業界。ほぼ新卒に毛が生えた程度のレベルの人間が早々に結果を出せるほど甘い世界ではありません。

 

僕が配属された部署は、お客様が地方銀行や信用金庫などの地域金融機関向けの営業部門でした。自分の会社と既に取引のある顧客は1社も与えられませんでした。「うちと取引のない会社は全てお前のお客だから、どんどん口座開設してこい。」そういう環境に置かれました。

 

新規口座開設できなければ、僕はクビです。外資系証券会社は早々に結果を出すことを求められます。与えられた時間は多くありません。僕は必死で毎日新規顧客開拓のための電話を繰り返し、アポを取って顧客訪問をしていました。

 

しかし、事はそううまく運びません。毎日必死で新規顧客開拓のための努力をしましたが、一向に結果が出ません。そうこうしているうちに半年が経過しました。

 

ある日、僕は会社から一枚のWarning letterを貰いました。要は、警告書です。

 

そこには、「あなたの業績は我々が期待していたものと乖離がある。この状態が続くのであれば、遠くない将来に解雇を含む厳しい措置が取られることになるだろう。」旨の文言が英語で書いてありました。

 

本当に、首の皮一枚の状態まで追い込まれてしまいました。すぐにでも結果を出さないとクビになってしまいます。

 

そこから、更に必死に営業を重ねた結果、入社7か月目にして何とか1社のお客様に新規口座開設をして頂きました。その後も数社のお客様に新規口座開設をして頂き、何とかその年度のクビは回避することができました。

 

よちよち歩きながらも、ある程度営業マンとして独り立ちできるようになったのは、ベアー・スターンズに入社して3年程経過してからでしょうか。

 

その後も順調に営業マンとしての経験を重ね、僕のことを信頼してくれるお客様も徐々に増えてきました。

 

外資系証券で実績を残せるようになると、それに比例して僕の収入も増えました。いつしか、僕の年収も数千万円に上昇しました。

 

しかし、金融業界にはゆっくりと破滅の足音が近づいてきていました。

 

2007年ごろから金融業界には信用不安のニュースが目に付くようになりました。その余波でアメリカで5番目に大きい証券会社であったベアー・スターンズもあっけなく実質破綻して、アメリカの大手銀行JPモルガンに身売りしたのです。2008年3月。リーマン・ブラザースが破綻する半年前のことでした。

 

外資系企業の身売りで雇用が100%維持されるケースは極めて稀です。僕はすぐに転職活動を始めました。

 

たまたま同業他社で採用を強化している会社があり、すぐに次の会社が見つかりました。

 

こうして、6年半勤めたベアー・スターンズ証券を退職し、2008年7月にイギリスの金融機関であるバークレイズ証券に入社しました。

 

バークレイズ証券でも職務内容は全く一緒。地方金融機関向けの営業マンとして活動していました。

 

最終的に、バークレイズ証券には4年半勤め、その後フランスに本社を置く外資系証券会社に3年間勤めました。

 

 

【現在】

 

現在では、「カワイイ彼女を作りたい30代独身男性のプロ合コンコーチ」として活動しています。

 

今まで彼女を作ることができなかった独身男性が、カワイイ彼女を作れる自分に変身する。その結果、「自信」を持った男性に生まれ変わることができます。

 

「自信」を持った男性を社会に多く輩出することによって、日本を元気にする。

 

これを自分の使命として、日々活動に勤しんでいます。

 

 

【自信を付けるためには?】

 

冒頭にも申し上げた通り、僕は元来自分に自信のない人間でした。そしてそれ故に就職活動もうまくいかなく、更に自分に自信がなくなると言うマイナスのスパイラルに嵌ってしまっておりました。

 

高校~大学時代に於いて、目立った「成果」を上げられなかったので、自分に自信が持てなかったのです。

 

その後、外資系証券業界に転じてから、徐々に「成果」を上げることができるようになるにつれて、自分の中に「自信」の種が芽生え、それが徐々に成長していきました。

 

就職活動でもほぼ門前払いにあっていた「自信」のない大学生であった僕は、17年の社会人生活を経て、いつしか「自分のやりたいことは実現できる」と心の底から思える「自信」のある男に成長できました。

 

大切なことは「成果」を上げることに執着することです。

 

「成果」を上げるためには、正しい「考え方」をベースとした数多くの重要なノウハウがあります。

 

僕はそのノウハウを提供するサービスを開発しました。そのサービスを体験してもらうことによって、ノウハウをあなた自身のものにする。そして、最終的にあなたが自信を持った男性に生まれ変わるために、具体的なお手伝いをすることが、僕の役割です。

 

是非、僕と一緒に歩み、「成果」を上げて、「自信」を持った男性になりましょう。

 

 

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